新宿鮫

※決定的なネタバレは避けていますが、後半の展開に触れています。
まあなんというか、言わずと知れた警察小説の傑作。今更ながらに読んだ次第。
それゆえに、あまり言うことがない。警察小説もしくはハードボイルドというジャンルに造詣が深ければいろんな切り口で語れるんだろうけど。
キャラクター・ストーリーをはじめとした各要素の完成度が高く、それらが過不足なく有機的に絡み合い、全編に緊迫感を持続させていて文句なしに面白い。まさにベストセラーになるべくしてなったという感じ。
解説で北上次郎先生が書かれている通り、ご都合主義的な場面もいくつかありますが、これもまた書かれているとおり、十分許容範囲内でしょう。
というか、はぐれ刑事の相手役としてはヒロインの設定がイケイケすぎると思うんだけど、それさえも長所にしているあたりに技量を感じる。
なので個人的にグッときたところ。
犯人の動機と、そこに至るまでの過程と背景。ここが素晴らしい。
なんというか、あらゆる意味でやりきれなさを覚えるような動機なのだ。
真相にたどり着いたのは鮫島だが、中盤での捜査本部の推察はある程度正しかった。
犯人は正義に裏切られたから、警察を襲った。
だからといってその動機と背景は、単に悲しいとか切ないとか、そういった風に読者がストレートに同情できるようなものではない。
私怨や思い込みも入り混じっている。でも、犯人が正義に、世界に、不当に傷つけられていたのもまた事実だ。
そういった人は現実に沢山いると思うし、そういった心理は毎日のようにどこかで生まれているとも思う。
(ざっくり言えばこの作品、新宿版『タクシードライバー』。だから当然、自分なんかは思いっきり感情移入してしまった)
でもそういった思いも、それを抱える人間も、都会の人波の中に埋没していくし、仮に日の目を見たとしても、大衆から純粋な目線で見られることはないだろう。
そんな犯人の心の動きに気付ける鮫島というキャラクターはやはり魅力的だし応援できるし、そういった些細だけど切実な感情を世界から汲み取れる大沢在昌ってすげぇな。と思わざるを得ない。
しかもその動機って、主人公と新宿という街(舞台)の負の映し鏡でもあるんだよなー……恐ろしいことに。だから作品全体がクライマックスできちっと締め上げられている。
ネタバレ回避のため、曖昧な文章で何が何やらな感想になってしまっていますが、少しでも興味を持っている人は読んで損はしないし、もし娯楽小説が好きでまだ読んでいなかったら一生のうちには読んでおくべきだよ。と、さらりと言えてしまう作品であります。今更言うのは恥ずかしいけど、もしまだ読んでない人はオススメです。
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Entry ⇒ 2015.08.13 | Category ⇒ 書籍(小説と漫画以外) | Comments (0) | Trackbacks (0)
銀河のワールドカップ
![]() | 銀河のワールドカップ (2006/04/26) 川端 裕人 商品詳細を見る |
川端裕人さんが贈る青春サッカー小説。
幼稚園児の時にクラブに入っていたことぐらいしかサッカーと接点のない自分でも、非常に楽しめました。
銀河へキックオフというタイトルでアニメ化される予定で(って、本日すでに先行放送されてるみたい)シリーズ構成は山田隆司さんみたいなので、とても楽しみにしています。なんつってもキャラデザが可愛い。ぐへへ・・・
前述のとおり、サッカーには全く詳しくないし、アニメへの期待もあるので、あんまり多くは書きません。ので、レビューというより感想ですが(あ、いつもか)、この作品は、子供たちの「最高の瞬間」を切り取った、青春小説の秀作だと思います。
※以下、終盤の展開に触れています。
失業中の元プロサッカー選手、花島勝は、あるきっかけから、クセ者ぞろいの少年サッカーチーム「桃山プレデター」のコーチを務めることになる。というのが簡単なあらすじ。
彼らが掲げた目標は日本一でも世界一でもなく銀河一!
荒唐無稽な彼らの願いが、物語の後半で、とんでもない展開を引き寄せる。
しつこいようですが、私、サッカーに関しては無知・・・というかスポーツ自体にあまり関心がありません。
そんな自分から見ての感想になりますが、作中、サッカーというスポーツへのアプローチに関しては、作者の強い愛を感じました。子供たちの個性や能力がかなり際立っている点はあるものの、描写も、小説として比較的リアルだったと思います。
少なくとも『イマズマイレブン』のような「超次元サッカー」ではない(笑)
ですがそういったこと諸々を差し引いても、この作品の終盤の展開は「ありえない」ものだと思います。
※ネタバレ(世界最強のプロチームに、ハンデありとはいえ、小学生チームが勝ってしまう)
でも、でも、この作品にとって、その展開と結末は必要で、必然だった
小学校高学年中心のチームということもあって、メンバーには女の子もいます。二人。高遠エリカに西園寺玲華。
そのエリカちゃんと玲華ちゃんの終盤の心境、最後の試合での思いが、この作品を象徴しているように思う。
玲華は楽しい。ここに来るまで辛いと思ったことはたくさんあるけれど、今この瞬間は楽しい。みんなと一緒にたどり着いた最高の舞台だし、自分が「できること」と「できないこと」も分かっている。だから楽しめる。
これから先、エリカはいろんな人たちとボールを蹴るだろう。中学に入ったら、もう男子と一緒はきつくなって、どこかで女子チームを見つけるだろう。でも今は、男子も女子も関係がなく、大人と子供すら関係ない。ただの高遠エリカとして立ち向かうんだ。
少年サッカーを描いているので、当然主要登場人物のほとんどは子供。それも小学生。
彼らを「少年少女」として、美化して描いているわけではない。子供なりに身の程を知りつつも、きちんと考え、行動する、れっきとしたひとりの人間として描く。
なので、ホントにクソ生意気な奴らばかり(笑)でもそれゆえに、読んでいると、彼らがとても愛おしくて、そして最高にカッコいい。読んでいる最中、彼らが眩しくて羨ましくて仕方がなかった。ゆえに、読んでいると、自分を省みてちょっと落ち込むことも(笑)
「自由」とは何か。「楽しむ」というのはどういうことか。そんなことについても色々考えさせられる。
ケチをつけるとするなら、やはり終盤の展開は少し強引な気がしたこと。その終盤の展開、最後の最後でメンバーの一人が試合を離脱してしまうこと。それとキャラクターが本当に素晴らしいので、もうちょっとでいいから、子供たち一人一人の描写を増やしてほしかった・・・つまり、子供たちの普段の生活や日常、チームメイト同士の試合外でのやり取りが、もっとあってもよかったんじゃないかなと。
例えば、スペイン出発前の空港とか滞在先のホテルとかで、もっとこう、子供同士の、他愛ない会話や、やり取りとか、きっとあったと思うので(続編および前日譚である『風のダンデライオン』の中で描かれていた、喫茶店でのケーキの取り合いとか)。
あまりベタベタしすぎているのも作品のバランスや読み口に響くし、心情描写に関しては、選手それぞれ個々の感情を、試合を通して描くことに、作品としての意味があるのだろうけど、やはり惜しい。もっと知りたくなる部分があまりにも多い。
アニメはあくまで原作とは別物だと認識していますが、アニメでは是非とも子供たちの「オフ」の時の顔も、たっぷりと描いてほしい。
以上これらの不満点は、作品の描き方や構成としては納得できても、どうしても抵抗と物足りなさがあった。まぁ個人的な願望と重箱の隅つつきですな。
ひとつ、決定的な不満としては、エピローグでエリカちゃんと玲華ちゃん、多義君の、その後のエピソードがなかったこと。どういうことやねん!
青砥君と離れて、寂しいけど、でも頑張ろうと、前向きなエリカちゃんにハァハァしたかったのに!
それにしても(ごまかした)やはりアニメが楽しみです。キャラデザ可愛いし(二度目。重要)。
まぁ三つ子と青砥君のデザインは、ちょっと違う気がするけど・・・・三つ子はまぁ映像的に分かりやすくしないと厳しいんだろうなぁ。とは思うんですが、青砥君がサラサラ金髪の色白美少年なのはどうなんだろう。天パじゃないのはいいにしても、スペインの人って、彫が深くて髪は黒めのイメージがあったので、個人的には違和感。でも可愛いからいいや。
というかそんなこと言ってたら、エリカちゃんが可愛すぎるんじゃないか。って気もするけどそこは無問題
っていうかクレジット見てみたら、デザイン、渡辺はじめさんですよ。『ケロケロちゃいむ』のDVD化まだかなぁ・・・
・・・しかし、なんで翼君の名前が変わったんだろう。いまの小さい子には伝わりにくいから?
とにもかくにも、ストーリーもキャラクターも本当に素晴らしく魅力的な作品だったので、アニメーションとして多くの人に認知されるということは本当に良いことだ!(昨日今日読んだくせに、どのクチでそれをいう・・・・)
個人的には、子供よりも、大人に見てほしい作品だと思いました。
「子供たちに学ぶ」ということがどういうことか、教えてくれた気がします。
※以下、終盤の展開に触れています。
失業中の元プロサッカー選手、花島勝は、あるきっかけから、クセ者ぞろいの少年サッカーチーム「桃山プレデター」のコーチを務めることになる。というのが簡単なあらすじ。
彼らが掲げた目標は日本一でも世界一でもなく銀河一!
荒唐無稽な彼らの願いが、物語の後半で、とんでもない展開を引き寄せる。
しつこいようですが、私、サッカーに関しては無知・・・というかスポーツ自体にあまり関心がありません。
そんな自分から見ての感想になりますが、作中、サッカーというスポーツへのアプローチに関しては、作者の強い愛を感じました。子供たちの個性や能力がかなり際立っている点はあるものの、描写も、小説として比較的リアルだったと思います。
少なくとも『イマズマイレブン』のような「超次元サッカー」ではない(笑)
ですがそういったこと諸々を差し引いても、この作品の終盤の展開は「ありえない」ものだと思います。
※ネタバレ(世界最強のプロチームに、ハンデありとはいえ、小学生チームが勝ってしまう)
でも、でも、この作品にとって、その展開と結末は必要で、必然だった
小学校高学年中心のチームということもあって、メンバーには女の子もいます。二人。高遠エリカに西園寺玲華。
そのエリカちゃんと玲華ちゃんの終盤の心境、最後の試合での思いが、この作品を象徴しているように思う。
玲華は楽しい。ここに来るまで辛いと思ったことはたくさんあるけれど、今この瞬間は楽しい。みんなと一緒にたどり着いた最高の舞台だし、自分が「できること」と「できないこと」も分かっている。だから楽しめる。
これから先、エリカはいろんな人たちとボールを蹴るだろう。中学に入ったら、もう男子と一緒はきつくなって、どこかで女子チームを見つけるだろう。でも今は、男子も女子も関係がなく、大人と子供すら関係ない。ただの高遠エリカとして立ち向かうんだ。
少年サッカーを描いているので、当然主要登場人物のほとんどは子供。それも小学生。
彼らを「少年少女」として、美化して描いているわけではない。子供なりに身の程を知りつつも、きちんと考え、行動する、れっきとしたひとりの人間として描く。
なので、ホントにクソ生意気な奴らばかり(笑)でもそれゆえに、読んでいると、彼らがとても愛おしくて、そして最高にカッコいい。読んでいる最中、彼らが眩しくて羨ましくて仕方がなかった。ゆえに、読んでいると、自分を省みてちょっと落ち込むことも(笑)
「自由」とは何か。「楽しむ」というのはどういうことか。そんなことについても色々考えさせられる。
ケチをつけるとするなら、やはり終盤の展開は少し強引な気がしたこと。その終盤の展開、最後の最後でメンバーの一人が試合を離脱してしまうこと。それとキャラクターが本当に素晴らしいので、もうちょっとでいいから、子供たち一人一人の描写を増やしてほしかった・・・つまり、子供たちの普段の生活や日常、チームメイト同士の試合外でのやり取りが、もっとあってもよかったんじゃないかなと。
例えば、スペイン出発前の空港とか滞在先のホテルとかで、もっとこう、子供同士の、他愛ない会話や、やり取りとか、きっとあったと思うので(続編および前日譚である『風のダンデライオン』の中で描かれていた、喫茶店でのケーキの取り合いとか)。
あまりベタベタしすぎているのも作品のバランスや読み口に響くし、心情描写に関しては、選手それぞれ個々の感情を、試合を通して描くことに、作品としての意味があるのだろうけど、やはり惜しい。もっと知りたくなる部分があまりにも多い。
アニメはあくまで原作とは別物だと認識していますが、アニメでは是非とも子供たちの「オフ」の時の顔も、たっぷりと描いてほしい。
以上これらの不満点は、作品の描き方や構成としては納得できても、どうしても抵抗と物足りなさがあった。まぁ個人的な願望と重箱の隅つつきですな。
ひとつ、決定的な不満としては、エピローグでエリカちゃんと玲華ちゃん、多義君の、その後のエピソードがなかったこと。どういうことやねん!
それにしても(ごまかした)やはりアニメが楽しみです。キャラデザ可愛いし(二度目。重要)。
まぁ三つ子と青砥君のデザインは、ちょっと違う気がするけど・・・・三つ子はまぁ映像的に分かりやすくしないと厳しいんだろうなぁ。とは思うんですが、青砥君がサラサラ金髪の色白美少年なのはどうなんだろう。天パじゃないのはいいにしても、スペインの人って、彫が深くて髪は黒めのイメージがあったので、個人的には違和感。でも可愛いからいいや。
というかそんなこと言ってたら、エリカちゃんが可愛すぎるんじゃないか。って気もするけどそこは無問題
っていうかクレジット見てみたら、デザイン、渡辺はじめさんですよ。『ケロケロちゃいむ』のDVD化まだかなぁ・・・
・・・しかし、なんで翼君の名前が変わったんだろう。いまの小さい子には伝わりにくいから?
とにもかくにも、ストーリーもキャラクターも本当に素晴らしく魅力的な作品だったので、アニメーションとして多くの人に認知されるということは本当に良いことだ!(昨日今日読んだくせに、どのクチでそれをいう・・・・)
個人的には、子供よりも、大人に見てほしい作品だと思いました。
「子供たちに学ぶ」ということがどういうことか、教えてくれた気がします。
Entry ⇒ 2012.03.26 | Category ⇒ 書籍(小説と漫画以外) | Comments (0) | Trackbacks (0)
新世界より
![]() | 新世界より 上 (2008/01/24) 貴志 祐介 商品詳細を見る |
![]() | 新世界より 下 (2008/01/24) 貴志 祐介 商品詳細を見る |
先日、遅まきながら読了。
貴志祐介さんによる書き下ろし長編作品というだけで期待は鰻登りでしたが、やはり傑作でした。
近々アニメ化されるそうですが・・・うーむ。
書き下ろし千枚に及ぶ大部の作品で、人類が「呪力」(念動力)という絶対的な力を手にした1000年後の未来世界を舞台とするSF小説。
第29回「日本SF大賞」受賞作だそうです。
・・・私、SFというジャンル自体は大好きなのですが、理系コンプレックスが邪魔をして、語るとなると本当に疎く、実はそんなに数も読んでおりません。でもそんな私から見ても、過去の受賞歴は壮観の一言ですね。
おお!『サラマンダー殲滅』に『蒲生邸事件』もあるよ。どっちも学生に時に読んで歓喜した思い出の作品なので嬉しい。
優れたSFであれば芸術・メディアの種類に関係なく受賞できるというのも素晴らしい。
で、いきなりハナシが逸れた上に、wikipediaばりの概要から始めましたが、以下、いつも通りの脈絡のないレビューというか感想です。
今作の根底を流れるテーマとして、『黒い家』と『天使の囀り』でも描かれていた、人間の持つ凶暴な性質や精神の不安定さ、ひいては「人間の業」に対して、作中の様々な要素と出来事を通し、多角的なアプローチで検証を行っているように思える。
人間と類人猿との比較は、SF映画の名作『2001年 宇宙の旅』や、現代に対する警鐘・暗喩で満ちていた『猿の惑星』でも行われていた。
1000年後の日本を舞台にしたディストピア小説で、前述の通りSFなのですが、実際はジャンル分けするのが難しいほど、様々な要素・作者の嗜好が詰め込まれている。
SFとしての先見性を基に、作中の世界観はハイ・ファンタジーと銘打っても問題がないほどに作り込まれており、主人公の少年少女達が活躍する様は冒険・ジュブナイル、隠された謎が徐々に解き明かされていく構造はミステリーとサスペンス、そして要所要所の味付けはホラー。すべてが渾然一体となって、読者に、圧倒的な奥行きで迫ってくる。
三年超のブランクを経て発表されたみたいだけど、それも納得。この作品には、彼自身が過去に描いてきた作品の主な要素が結実したような重みがある。それでいて、読者を選ばずに掴んで離さない圧倒的な筆力とリーダビリティの高さ、ベストセラー作家ならではの貫録に満ち満ちている。
とにかく、未読の方には、「まず読め!」としか書けない。ハイ、いきなりレビューを放棄しました。始まりは少しトロいかもしれないけど、序盤のある出来事に対面したら、そこからはもうノンストップ。寝食を忘れて読み耽るはず。
宮部みゆきの『模倣犯』、小野不由美の『屍鬼』など、比類なき実力を持つ作家の情熱が大部の作品として結実した時、その作品を読み終えて読者ができることは一つ、放心である。
(・・・あえてケチをつけるとすれば、キャラクターの魅力の足らなさも、過去の作品から引き継いでしまっていることか。作品を構成する他の要素が素晴らしすぎるので、相対的に感じてしまう部分もあるのだろうけど。私が読了済みの彼の作品は『黒い家』『天使の囀り』『クリムゾンの迷宮』で、いずれも傑作だと思っているけど、登場人物に関して言えば、一部を除いて、主人公の名前すら思い出せない。)
ここから(やっと)内容に触れていきますので、未読の方は絶対に読まないよーに!
ブログでなり、リアルでなり、私を多少なりとも知ってくれている人で、なおかつこの作品を読んでいる人には、予想がついていることかもしれませんが、読んでいる最中ずっと、「あーあ、神栖66町の住人全員死ねばいいのに」と思っていました(^_^;)
これはあのオチに関係なく、作中の謎が明かされる以前の序盤の段階からです。えへ。
作中の人間たち・・・神栖66町の住人達は、まさに、私が嫌悪している「愚かな人間」像を体現しています。
愛や善意を標榜しながら、その実、絶対的な力を拠り所に「神」を驕り、その癖、臆病で、自分で考え行動することはほとんどせずに、周りの小さな世界に閉じこもり、それを脅かす他者は問答無用に排斥する。それらをいかにもな理屈で塗り固め、正当化することも忘れない。もちろん、それらの言葉は、後ろめたさを覆い隠す詭弁以外のなにものでもない。
驕りきった凶暴で臆病な自分を心の中では自覚していながら、互いにそれを責めることは決してない、大多数の「善良で正しい市民達」。
1000年後の未来で、「呪力」という絶対の力を持ち、万能な社会と環境を築き上げながらも、本質は全く変わっていない。
いや、それどころか、それらを開発・維持していることで、その悪性は凝縮され、表面上は美しくとも、これ以上ない醜さが、ふたとした時に見え隠れしている。
町長が、バケネズミを「面従腹背」と評しておきながら、彼らが反乱を起こせば「何故だ!よくしてやったのに、恩知らずめ!」と憤る町。
彼等がバケネズミを信用できないのは、彼らが人間と違う獣だからではなく、自分たちが彼らに対して行っている行為を、本当は心のどこかで、後ろめたく思っているからだ。
いや、町の管理下で生まれ育った大多数の子供たち、呪力を持つ自らを神と疑わない大人たちは、そういった認識すら根元から存在していないのか。どちらにしろ、救いようもなく愚かだ。
「なぜ、人間に反逆しようとしたの?」
「我々は、あなたがたの奴隷ではないからだ」
「奴隷って、どういうことだ?たしかに、貢物や役務の提供は求めたかもしれないが、お前たちには、完全な自治を認めていたじゃないか?」
「ご主人様のご機嫌が麗しいときはね。しかし、いったん、些細な理由で逆鱗に触れれば、たちまち、コロニーごと消滅させられる運命です。奴隷より悪いかもしれない」
「スクィーラ、あなたに、ひとつだけ、頼みたいことがあるの。あなたが殺した人たち全員に対して、心の底から謝罪して」
「いいですとも。その前にあなたがたが謝罪してくれればね。あなたがたが、何の良心も呵責もなく、虫けらのように捻り潰した、我が同胞全員に対して」
未来世界とクリーチャー描写の魅力や素晴らしさそれ自体は別として、人間の持つ業や愚かさが気持ち悪くて、そして何より腹立たしくて仕方なかった。読者という第三者の目線で好き勝手こういった文章を書いている自分もまた、同じ穴の狢に過ぎないから。
「我々は、淀みに浮かぶ泡沫のように、、不安定な立場です。そこから脱したいと願うのは、当然のことではないですか?」
なので、自分の感情移入の先は自然とバケネズミに向かっていた。
五章の「劫火」での、バケネズミによる人間の大殺戮!
スプラッター描写やバケネズミのミュータント登場に歓喜する個人的な変態嗜好は抜きにしても「自業自得だろ。ていうかもっとやれ」としか思えなかった。
だからといって、バケネズミという種族自体に好感を持ったかというと、それはちょっと違う。醜い容姿はともかく、彼らの生態や文化に関しては、自分も、人間という種族として、異種族に対する敬遠もしくは嫌悪というものは、厳然としてある。
バケネズミ独自の文化を別にしても・・・彼らの中でも特に高い知性と能力を持っているであろう奇狼丸とスクィーラにして、バケネズミの起源に違わず、根っこは、愚かな人間と変わらない。
奇狼丸はスクィーラを「口先三寸の外道」「二枚舌」「権勢欲の虜」と散々貶し、スクィーラの方は「旧弊な思想に凝り固まった爺い」と奇狼丸を罵っていますが、どちらの評も間違ってはいないと思う。
作中の、「人間」、「バケネズミ」、そして読者である「現代人」。
いずれも、少しでも視点を変えて見れば、人間の業を象徴している映し鏡。
誰が特別で、誰が誰より利口というわけじゃない。
けれど、だからこそ、その中で、己の肉体と知恵を駆使して自らの信じるものを貫き通した、スクィーラと奇狼丸の二人は、最高にかっこいい。
私たちは、人間だ!
スクィーラのあの叫びは、「バケネズミの起源は呪力を使えなかった人間」という、ラストに明かされる設定に関係なく、まばゆいほどに輝いていた。
この二者に比べたら、神栖66町の住人なんて、はっきりいってゴミ。
もし自分があの裁判の場にいたら、集まっている人間全員、彼らがバケネズミにしたように、頭をスイカみたいにフッ飛ばしていただろう。『スキャナーズ』みたいに。いや、愧死機構があるだろうから実際はできないけど。
人間だろうとバケネズミだろうと、種族に関係なく、この世に産み落とされた知性ある生物として、彼らには、個人的な賞賛と尊敬を惜しむことができない。
ところで、こういったことを考えていくと、かえすもがえすも、その存在意義に疑問が沸くキャラクターがいる。誰のことかというとつまり、覚とは何だったのか。
個人的な好みでいえば、好きでも嫌いでもないキャラ。だからといって、作中、キャラ付けがされていないわけではない。けど、メインキャラとしての、物語的な立ち位置や役割に関しては、個人的にはイマイチ不明だなぁというのが本音。
子供時代の早季の評としては、皮肉屋で見栄っ張りだけど、根は優しい・・・うん、まぁその通りで、年頃の男の子としてはありがちというか、むしろ微笑ましい性格だとは思うのですが、問題なのは、作中の数々の危機や冒険を通してもなお、最後まで成長が見られなかったこと。
もちろん、青年期では、彼のその鍛え抜かれた呪力の技能や、頭の良さを生かした判断力や行動力があったからこそ、ほぼ全編を通して早季を助け、共に最後まで生き延びることができたわけですが、精神面では序盤の子供時代と何ら変わってないように思える。
終盤の悪鬼との攻防戦において、奇狼丸が早季と覚に多大なリスクをもたらす作戦を提案し、覚がそれに反発した際に、奇狼丸にはっきりと『あなたの言っていることは、まるで、駄々っ子です』言われているけれど、まさにズバリの覚評。
戦いが終わってスクィーラと対面した時も、バケネズミである奇狼丸にあれだけ助けられ、雀蜂コロニーでさえ好機さえあれば人間に牙を向こうとしていたこともしっかりと聞いておきながら、人間>バケネズミという考えが些かも揺らいでおらず、「神」として冷然とした態度を見せる。
もちろん、自分の大切な人達が殺された元凶であるスクィーラに対して慈愛の精神を持て。というのは、作中の流れとしてもキャラクターの感情の変遷としても、不自然だとは思うけど、彼らが人間にどんな扱いを受けて何を思っているのかを聞いてなお、この傲慢な態度・・・
この、彼が見せる、二者に対する反感は、作戦なり革命なりの言いだしっぺや発案者が手を汚さないのが気に入らない。という正義漢として見ることもできるけど、どちらの場合も根本にあるのは、バケネズミに対する不信感と侮り。それじゃ神栖66町の住人たちと変わらない。町で育った子供から当然といえばそうなのですが、それじゃあ、彼が作中で見せる情の厚さや自己犠牲の精神も、結局、町の教育の賜物に過ぎないんじゃないかと疑いたくなってくる。
それの何がいけないんだといわれると、明確に返答することはできないし、スクィーラの裁判がきっかけで、バケネズミは元は人間だったという隠された真実を解き明かしたのは、彼というのも事実。
でも、ほぼ全編を通して、主人公である早季と行動を共にし数々の修羅場と感情を共有しながら見事に生き残り、最後にはパートナーとなったキャラクターとして見ると、早季と違って内面の成長がほとんど見られず、なんだか腑に落ちない・・・というか情けない。
覚のラスト周辺のセリフ
『要は、僕らが、バケネズミたちを同胞として認識できるかどうかだ』
・・・バケネズミが元人間ではなく単なる異類であったなら(この例えが、この作品において意味があるかどうかは置いといて)、彼らを平気で殺したことへの反省はなかったんでしょうか覚君。
『呪力は、宇宙の根源に迫る神の力なんだよ。人間は、長い進化を経た末に、ようやくこの高みに達したんだ。最初は、たしかに、身の丈にそぐわない力だったかもしれない。でも、最近になって、やっと、この力と共存できるようになってきたんだ』
・・・あなたに言われても本当に楽観的にしか聞こえない。
どちらのセリフも、彼の成長具合によっては、作中で至高の名言として響いたであろう言葉なだけに、残念で仕方がない。
・・・・なんだか不満を長々書いてきたようになっているけれど、これは作品の疵ではなく、私が読者として、作者の掌の上で見事に弄ばれている証拠です。
今作を読んで、貴志祐介さんに対する思いはますます強くなった。作家・エンターテイナーとしての力量はもちろん、その嗜好に。
ツチボタルを松明代わりにするなんて・・・そんな着眼点と嗜好の持ち主は世界広しといえども貴志さんだけでしょう。ハラショー(素晴らしい)!
あ、アニメ化に際しましては、作中のキャンプでの、早季と瞬のカヌーのシーンと、神栖66町においての「愛の社会」の実践をしっかりと且つ濃密に描くこと。ストーリー的にどこまでやるのかは知らないけど、東京地下大冒険を、原作者の意向と嗜好を最大限に汲み取り、スタッフ一丸となって命がけで描くこと。これだけやってくれたら、絶対ケチはつけません。もう何も言わない。人間ドラマなんてカットしてもらって構わない。HDに全話録画のうえ、BD買いますんで。そこんところ宜しくお願いします。
このときのバケネズミの視線は、すばるとは違ってひどく不愉快だった。わたしたちの行為の意味を理解しているだけでなく 下等な脳に宿る卑猥で陋劣な妄想の色眼鏡を通して、涎を垂らさんばかりの表情で見入っているのだ。
↑これ、自分のこと書かれてるみたいで、ビビりました(^_^;) げへへ・・・
それにしても、やはりラストの一文。強い共感を抱かずにはいられない。
私も、日々そう思いながら暮らしている「人間」なので。
人間の持つ、最高最強の武器。しかし諸刃の剣。
けれど、まぎれもない、いたわりの源。
想像力こそが、すべてを変える。
人間と類人猿との比較は、SF映画の名作『2001年 宇宙の旅』や、現代に対する警鐘・暗喩で満ちていた『猿の惑星』でも行われていた。
1000年後の日本を舞台にしたディストピア小説で、前述の通りSFなのですが、実際はジャンル分けするのが難しいほど、様々な要素・作者の嗜好が詰め込まれている。
SFとしての先見性を基に、作中の世界観はハイ・ファンタジーと銘打っても問題がないほどに作り込まれており、主人公の少年少女達が活躍する様は冒険・ジュブナイル、隠された謎が徐々に解き明かされていく構造はミステリーとサスペンス、そして要所要所の味付けはホラー。すべてが渾然一体となって、読者に、圧倒的な奥行きで迫ってくる。
三年超のブランクを経て発表されたみたいだけど、それも納得。この作品には、彼自身が過去に描いてきた作品の主な要素が結実したような重みがある。それでいて、読者を選ばずに掴んで離さない圧倒的な筆力とリーダビリティの高さ、ベストセラー作家ならではの貫録に満ち満ちている。
とにかく、未読の方には、「まず読め!」としか書けない。ハイ、いきなりレビューを放棄しました。始まりは少しトロいかもしれないけど、序盤のある出来事に対面したら、そこからはもうノンストップ。寝食を忘れて読み耽るはず。
宮部みゆきの『模倣犯』、小野不由美の『屍鬼』など、比類なき実力を持つ作家の情熱が大部の作品として結実した時、その作品を読み終えて読者ができることは一つ、放心である。
(・・・あえてケチをつけるとすれば、キャラクターの魅力の足らなさも、過去の作品から引き継いでしまっていることか。作品を構成する他の要素が素晴らしすぎるので、相対的に感じてしまう部分もあるのだろうけど。私が読了済みの彼の作品は『黒い家』『天使の囀り』『クリムゾンの迷宮』で、いずれも傑作だと思っているけど、登場人物に関して言えば、一部を除いて、主人公の名前すら思い出せない。)
ここから(やっと)内容に触れていきますので、未読の方は絶対に読まないよーに!
ブログでなり、リアルでなり、私を多少なりとも知ってくれている人で、なおかつこの作品を読んでいる人には、予想がついていることかもしれませんが、読んでいる最中ずっと、「あーあ、神栖66町の住人全員死ねばいいのに」と思っていました(^_^;)
これはあのオチに関係なく、作中の謎が明かされる以前の序盤の段階からです。えへ。
作中の人間たち・・・神栖66町の住人達は、まさに、私が嫌悪している「愚かな人間」像を体現しています。
愛や善意を標榜しながら、その実、絶対的な力を拠り所に「神」を驕り、その癖、臆病で、自分で考え行動することはほとんどせずに、周りの小さな世界に閉じこもり、それを脅かす他者は問答無用に排斥する。それらをいかにもな理屈で塗り固め、正当化することも忘れない。もちろん、それらの言葉は、後ろめたさを覆い隠す詭弁以外のなにものでもない。
驕りきった凶暴で臆病な自分を心の中では自覚していながら、互いにそれを責めることは決してない、大多数の「善良で正しい市民達」。
1000年後の未来で、「呪力」という絶対の力を持ち、万能な社会と環境を築き上げながらも、本質は全く変わっていない。
いや、それどころか、それらを開発・維持していることで、その悪性は凝縮され、表面上は美しくとも、これ以上ない醜さが、ふたとした時に見え隠れしている。
町長が、バケネズミを「面従腹背」と評しておきながら、彼らが反乱を起こせば「何故だ!よくしてやったのに、恩知らずめ!」と憤る町。
彼等がバケネズミを信用できないのは、彼らが人間と違う獣だからではなく、自分たちが彼らに対して行っている行為を、本当は心のどこかで、後ろめたく思っているからだ。
いや、町の管理下で生まれ育った大多数の子供たち、呪力を持つ自らを神と疑わない大人たちは、そういった認識すら根元から存在していないのか。どちらにしろ、救いようもなく愚かだ。
「なぜ、人間に反逆しようとしたの?」
「我々は、あなたがたの奴隷ではないからだ」
「奴隷って、どういうことだ?たしかに、貢物や役務の提供は求めたかもしれないが、お前たちには、完全な自治を認めていたじゃないか?」
「ご主人様のご機嫌が麗しいときはね。しかし、いったん、些細な理由で逆鱗に触れれば、たちまち、コロニーごと消滅させられる運命です。奴隷より悪いかもしれない」
「スクィーラ、あなたに、ひとつだけ、頼みたいことがあるの。あなたが殺した人たち全員に対して、心の底から謝罪して」
「いいですとも。その前にあなたがたが謝罪してくれればね。あなたがたが、何の良心も呵責もなく、虫けらのように捻り潰した、我が同胞全員に対して」
未来世界とクリーチャー描写の魅力や素晴らしさそれ自体は別として、人間の持つ業や愚かさが気持ち悪くて、そして何より腹立たしくて仕方なかった。読者という第三者の目線で好き勝手こういった文章を書いている自分もまた、同じ穴の狢に過ぎないから。
「我々は、淀みに浮かぶ泡沫のように、、不安定な立場です。そこから脱したいと願うのは、当然のことではないですか?」
なので、自分の感情移入の先は自然とバケネズミに向かっていた。
五章の「劫火」での、バケネズミによる人間の大殺戮!
スプラッター描写やバケネズミのミュータント登場に歓喜する個人的な変態嗜好は抜きにしても「自業自得だろ。ていうかもっとやれ」としか思えなかった。
だからといって、バケネズミという種族自体に好感を持ったかというと、それはちょっと違う。醜い容姿はともかく、彼らの生態や文化に関しては、自分も、人間という種族として、異種族に対する敬遠もしくは嫌悪というものは、厳然としてある。
バケネズミ独自の文化を別にしても・・・彼らの中でも特に高い知性と能力を持っているであろう奇狼丸とスクィーラにして、バケネズミの起源に違わず、根っこは、愚かな人間と変わらない。
奇狼丸はスクィーラを「口先三寸の外道」「二枚舌」「権勢欲の虜」と散々貶し、スクィーラの方は「旧弊な思想に凝り固まった爺い」と奇狼丸を罵っていますが、どちらの評も間違ってはいないと思う。
作中の、「人間」、「バケネズミ」、そして読者である「現代人」。
いずれも、少しでも視点を変えて見れば、人間の業を象徴している映し鏡。
誰が特別で、誰が誰より利口というわけじゃない。
けれど、だからこそ、その中で、己の肉体と知恵を駆使して自らの信じるものを貫き通した、スクィーラと奇狼丸の二人は、最高にかっこいい。
私たちは、人間だ!
スクィーラのあの叫びは、「バケネズミの起源は呪力を使えなかった人間」という、ラストに明かされる設定に関係なく、まばゆいほどに輝いていた。
この二者に比べたら、神栖66町の住人なんて、はっきりいってゴミ。
もし自分があの裁判の場にいたら、集まっている人間全員、彼らがバケネズミにしたように、頭をスイカみたいにフッ飛ばしていただろう。『スキャナーズ』みたいに。いや、愧死機構があるだろうから実際はできないけど。
人間だろうとバケネズミだろうと、種族に関係なく、この世に産み落とされた知性ある生物として、彼らには、個人的な賞賛と尊敬を惜しむことができない。
ところで、こういったことを考えていくと、かえすもがえすも、その存在意義に疑問が沸くキャラクターがいる。誰のことかというとつまり、覚とは何だったのか。
個人的な好みでいえば、好きでも嫌いでもないキャラ。だからといって、作中、キャラ付けがされていないわけではない。けど、メインキャラとしての、物語的な立ち位置や役割に関しては、個人的にはイマイチ不明だなぁというのが本音。
子供時代の早季の評としては、皮肉屋で見栄っ張りだけど、根は優しい・・・うん、まぁその通りで、年頃の男の子としてはありがちというか、むしろ微笑ましい性格だとは思うのですが、問題なのは、作中の数々の危機や冒険を通してもなお、最後まで成長が見られなかったこと。
もちろん、青年期では、彼のその鍛え抜かれた呪力の技能や、頭の良さを生かした判断力や行動力があったからこそ、ほぼ全編を通して早季を助け、共に最後まで生き延びることができたわけですが、精神面では序盤の子供時代と何ら変わってないように思える。
終盤の悪鬼との攻防戦において、奇狼丸が早季と覚に多大なリスクをもたらす作戦を提案し、覚がそれに反発した際に、奇狼丸にはっきりと『あなたの言っていることは、まるで、駄々っ子です』言われているけれど、まさにズバリの覚評。
戦いが終わってスクィーラと対面した時も、バケネズミである奇狼丸にあれだけ助けられ、雀蜂コロニーでさえ好機さえあれば人間に牙を向こうとしていたこともしっかりと聞いておきながら、人間>バケネズミという考えが些かも揺らいでおらず、「神」として冷然とした態度を見せる。
もちろん、自分の大切な人達が殺された元凶であるスクィーラに対して慈愛の精神を持て。というのは、作中の流れとしてもキャラクターの感情の変遷としても、不自然だとは思うけど、彼らが人間にどんな扱いを受けて何を思っているのかを聞いてなお、この傲慢な態度・・・
この、彼が見せる、二者に対する反感は、作戦なり革命なりの言いだしっぺや発案者が手を汚さないのが気に入らない。という正義漢として見ることもできるけど、どちらの場合も根本にあるのは、バケネズミに対する不信感と侮り。それじゃ神栖66町の住人たちと変わらない。町で育った子供から当然といえばそうなのですが、それじゃあ、彼が作中で見せる情の厚さや自己犠牲の精神も、結局、町の教育の賜物に過ぎないんじゃないかと疑いたくなってくる。
それの何がいけないんだといわれると、明確に返答することはできないし、スクィーラの裁判がきっかけで、バケネズミは元は人間だったという隠された真実を解き明かしたのは、彼というのも事実。
でも、ほぼ全編を通して、主人公である早季と行動を共にし数々の修羅場と感情を共有しながら見事に生き残り、最後にはパートナーとなったキャラクターとして見ると、早季と違って内面の成長がほとんど見られず、なんだか腑に落ちない・・・というか情けない。
覚のラスト周辺のセリフ
『要は、僕らが、バケネズミたちを同胞として認識できるかどうかだ』
・・・バケネズミが元人間ではなく単なる異類であったなら(この例えが、この作品において意味があるかどうかは置いといて)、彼らを平気で殺したことへの反省はなかったんでしょうか覚君。
『呪力は、宇宙の根源に迫る神の力なんだよ。人間は、長い進化を経た末に、ようやくこの高みに達したんだ。最初は、たしかに、身の丈にそぐわない力だったかもしれない。でも、最近になって、やっと、この力と共存できるようになってきたんだ』
・・・あなたに言われても本当に楽観的にしか聞こえない。
どちらのセリフも、彼の成長具合によっては、作中で至高の名言として響いたであろう言葉なだけに、残念で仕方がない。
・・・・なんだか不満を長々書いてきたようになっているけれど、これは作品の疵ではなく、私が読者として、作者の掌の上で見事に弄ばれている証拠です。
今作を読んで、貴志祐介さんに対する思いはますます強くなった。作家・エンターテイナーとしての力量はもちろん、その嗜好に。
ツチボタルを松明代わりにするなんて・・・そんな着眼点と嗜好の持ち主は世界広しといえども貴志さんだけでしょう。ハラショー(素晴らしい)!
あ、アニメ化に際しましては、作中のキャンプでの、早季と瞬のカヌーのシーンと、神栖66町においての「愛の社会」の実践をしっかりと且つ濃密に描くこと。ストーリー的にどこまでやるのかは知らないけど、東京地下大冒険を、原作者の意向と嗜好を最大限に汲み取り、スタッフ一丸となって命がけで描くこと。これだけやってくれたら、絶対ケチはつけません。もう何も言わない。人間ドラマなんてカットしてもらって構わない。HDに全話録画のうえ、BD買いますんで。そこんところ宜しくお願いします。
このときのバケネズミの視線は、すばるとは違ってひどく不愉快だった。わたしたちの行為の意味を理解しているだけでなく 下等な脳に宿る卑猥で陋劣な妄想の色眼鏡を通して、涎を垂らさんばかりの表情で見入っているのだ。
↑これ、自分のこと書かれてるみたいで、ビビりました(^_^;) げへへ・・・
それにしても、やはりラストの一文。強い共感を抱かずにはいられない。
私も、日々そう思いながら暮らしている「人間」なので。
人間の持つ、最高最強の武器。しかし諸刃の剣。
けれど、まぎれもない、いたわりの源。
想像力こそが、すべてを変える。
Entry ⇒ 2012.03.22 | Category ⇒ 書籍(小説と漫画以外) | Comments (6) | Trackbacks (0)