LAMB/ラム

以下、ネタバレに配慮していません。
産みの親を屠りいたいけな子供を我が物した夫婦。マリアとイングヴァルは非道な行いをした間違った人物である。
羊と人間の半人半獣の身体をもって産まれた子供。少女アダはまごうことなき異形である。
間違っている。人とは違う。
ーーだからこそ純化される思いや感情を、映画はたびたび映し取る。
人間や日常を異化し、世間から隠された感情に光を当てることこそ芸術のそもそもの役割なのかもしれない。
今作の舞台はアイスランドの山間。広大な草原と山々の狭間にある羊小屋に、雪深いクリスマスの夜、何者かがやってきた。
冒頭で仄めかされるこの出来事が異形の子アダの出生を指し示している。直接的なまでにキリスト教を連想させるくだりであるし、本作の舞台や雰囲気は全体に寓話性を帯びてもいる。むき出しの広大な自然からは、キリスト教以前の土着的な信仰や神話性を読み取ることも可能であろう。同じくA24配給の『ミッドサマー』とペイガニズムをテーマとして比較するのも一興かもしれない。
しかし自分は本作を、上述の通り「間違った夫婦」の物語として観た。卑近な人間たちの営み、つまり普遍的な人間ドラマとして。
なだらかに果てしなく続く草原、不動に切り立つ峻険な山々。秘密を隠すように立ち込める濃霧、たおやかに流れる小川。それらに囲まれながら農業を営む夫婦の痛ましく埋めがたい喪失。
厳然たる絶景は人間には計り知れない運命を、心に傷を抱えた夫婦は人間の被る理不尽の象徴に思える。
そんな中で異形である半人半獣のーーしかし愛らしいアダを"天の授かりもの"として独占しようとするマリアとイングヴァルの様を、むしろ「自然」だと感じてしまったのは自分だけだろうか?
本作は淡々と、しかし意外にもテンポ良く、そして丁寧に、3人ともう1人の生活を描いていく。
画作りやBGMから発せられる不穏な雰囲気こそ止まないものの、その生活の内実は拍子抜けするほど「普通」の人間ドラマに思えた。初めは薄気味悪く思っていたイングヴァルもその弟ペートゥルも、アダを肉親として受け入れていく。
また、アダが鏡を覗き込み自身の異形と向き合うシーンは、ラカンの唱えた鏡像段階の概念を直接的に連想させる。精神分析とは人間に適用するものだ、つまり、アダが人間の子供でもあることを、明確に示している描写といえる。
しかしやはり、不穏な雰囲気や伏線は、夫婦へのーー傲慢な人間への罰として結実する。
倒れたイングヴァルの胸に頬を当てるアダ。今際の際まで娘を手放すまいとしていたイングヴァル。二人の手が「正しい者」によって引き離された瞬間、胸が締めつけられた。互いを思いやる家族の絆を、こんなにも純粋に映しとった映画が、今までにあっただろうか?
もちろん前述のとおり、イングヴァルは間違っているし、そもそも「アダ」という名前は以前に亡くなった娘のものだ。今作で描かれてきた家族の絆は所詮は代償行為、悪質なごっこ遊びに過ぎないと評することも可能かもしれない。
しかし、これまでに描かれてきた生活ーーその描写の数々、互いに慈しみ合うショットの積み重ねーーそこに映され、滲んでいた感情すべてが虚なまやかしであると、誰が断ぜられるだろう。
映画とはイメージを使って物語るメディアである。スクリーンに映し出される映像は、どれほどリアルに思えたとしても、人の手によって描かれ・刻まれたイメージ≒現実のイミテーションに過ぎない。しかし観客はそこに自分なりの意味や解釈.....畢竟、価値を見出そうとする。
その意味で今作は、本質的な意味で、とても映画的な作品であると思う。
全てを喪い、残されたマリアの姿が痛ましく、また彼女を映したまま幕を閉じる物語の終わりは幾分か謎めいている。
マリアを演じたノオミ・ラパスはこの結末を"岐路" "古い章の終わり、新しい章の始まり"と称している。
愛らしいアダは去ってしまった。しかし彼女を見送った後も、世界と私たちの生は続いてゆくのだ。
羊と人間の半人半獣の身体をもって産まれた子供。少女アダはまごうことなき異形である。
間違っている。人とは違う。
ーーだからこそ純化される思いや感情を、映画はたびたび映し取る。
人間や日常を異化し、世間から隠された感情に光を当てることこそ芸術のそもそもの役割なのかもしれない。
今作の舞台はアイスランドの山間。広大な草原と山々の狭間にある羊小屋に、雪深いクリスマスの夜、何者かがやってきた。
冒頭で仄めかされるこの出来事が異形の子アダの出生を指し示している。直接的なまでにキリスト教を連想させるくだりであるし、本作の舞台や雰囲気は全体に寓話性を帯びてもいる。むき出しの広大な自然からは、キリスト教以前の土着的な信仰や神話性を読み取ることも可能であろう。同じくA24配給の『ミッドサマー』とペイガニズムをテーマとして比較するのも一興かもしれない。
しかし自分は本作を、上述の通り「間違った夫婦」の物語として観た。卑近な人間たちの営み、つまり普遍的な人間ドラマとして。
なだらかに果てしなく続く草原、不動に切り立つ峻険な山々。秘密を隠すように立ち込める濃霧、たおやかに流れる小川。それらに囲まれながら農業を営む夫婦の痛ましく埋めがたい喪失。
厳然たる絶景は人間には計り知れない運命を、心に傷を抱えた夫婦は人間の被る理不尽の象徴に思える。
そんな中で異形である半人半獣のーーしかし愛らしいアダを"天の授かりもの"として独占しようとするマリアとイングヴァルの様を、むしろ「自然」だと感じてしまったのは自分だけだろうか?
本作は淡々と、しかし意外にもテンポ良く、そして丁寧に、3人ともう1人の生活を描いていく。
画作りやBGMから発せられる不穏な雰囲気こそ止まないものの、その生活の内実は拍子抜けするほど「普通」の人間ドラマに思えた。初めは薄気味悪く思っていたイングヴァルもその弟ペートゥルも、アダを肉親として受け入れていく。
また、アダが鏡を覗き込み自身の異形と向き合うシーンは、ラカンの唱えた鏡像段階の概念を直接的に連想させる。精神分析とは人間に適用するものだ、つまり、アダが人間の子供でもあることを、明確に示している描写といえる。
しかしやはり、不穏な雰囲気や伏線は、夫婦へのーー傲慢な人間への罰として結実する。
倒れたイングヴァルの胸に頬を当てるアダ。今際の際まで娘を手放すまいとしていたイングヴァル。二人の手が「正しい者」によって引き離された瞬間、胸が締めつけられた。互いを思いやる家族の絆を、こんなにも純粋に映しとった映画が、今までにあっただろうか?
もちろん前述のとおり、イングヴァルは間違っているし、そもそも「アダ」という名前は以前に亡くなった娘のものだ。今作で描かれてきた家族の絆は所詮は代償行為、悪質なごっこ遊びに過ぎないと評することも可能かもしれない。
しかし、これまでに描かれてきた生活ーーその描写の数々、互いに慈しみ合うショットの積み重ねーーそこに映され、滲んでいた感情すべてが虚なまやかしであると、誰が断ぜられるだろう。
映画とはイメージを使って物語るメディアである。スクリーンに映し出される映像は、どれほどリアルに思えたとしても、人の手によって描かれ・刻まれたイメージ≒現実のイミテーションに過ぎない。しかし観客はそこに自分なりの意味や解釈.....畢竟、価値を見出そうとする。
その意味で今作は、本質的な意味で、とても映画的な作品であると思う。
全てを喪い、残されたマリアの姿が痛ましく、また彼女を映したまま幕を閉じる物語の終わりは幾分か謎めいている。
マリアを演じたノオミ・ラパスはこの結末を"岐路" "古い章の終わり、新しい章の始まり"と称している。
愛らしいアダは去ってしまった。しかし彼女を見送った後も、世界と私たちの生は続いてゆくのだ。
Entry ⇒ 2022.10.07 | Category ⇒ 未分類 | Comments (0) | Trackbacks (0)
TITANE チタン
※以下、ネタバレしています。
ストーカー男をアレクシアが突然刺し殺す。
前作でシスターフッドを描いていた印象が強かったため、女性のエンパワメントを過激な形で表現しているシーンなのだと解釈した。
「凶器の髪留めは男根の象徴、白く濁りきった唾液は精液の象徴? 考えすぎかな~」などと考えながら観ていた。
しかしアレクシアは、親しくなった女性の同僚ジュスティーヌ(演じるのはまたもギャランス・マリリエ)もまた同じ手口で殺害してしまう!
目撃者を消すため、続けてルームシェアをしていた数人をも手をかけることになるのだが、そもそもアレクシアの殺意の源はどこにあるのか?
どうやらそれは「自身が性的な目線・欲求の対象となった」ときに起こる衝動のようだ。
これだけでもエクストリームな描写の連続であり驚くべき物語展開ではあるが、そもそもオープニングでは交通事故で身体に金属を埋め込まれたことがきっかけで車に身体を擦りつけたり、上記のシェアハウスにおける殺害シークエンスの前には車とセックスをして身ごもっていたりする。
監督ジュリア・デュクルノーの前作『RAW ~少女のめざめ~』は、ベジタリアンの少女が寄宿学校でのいじめや上級生である姉との交流・衝突などによってカニバリズムに目覚めていく……という、こちらもまた非常に過激な作品である。
しかし観ている内、思春期の少女が自身の性と向き合い「愛」とは何かを学んでいく、という、きわめて普遍的なテーマやモチーフが底流としてあることが感じられ、非常に感銘を受けた。
前作の数倍は過激なこの『TITANE』もまた「愛」についての物語である。
アレクシアと他者との関係を見直してみたとき、おそらく一番意味深いのは「父親」の存在だ。
有り体に言ってしまえば、おそらく彼女はファザコンなのだろう。しかし、そのきっかけは判然としないのが興味深い。
なぜ「父親」が彼女に影を落としているのか。それはアレクシアが自身の性(もしくは他者との関係性における性愛)へ抱いている戸惑いのせいかもしれない。
あくまで展開上の成り行きではあるが、アレクシアは自身の肉体に表れる「女性」を押さえ込もうとする。しかし、どんなに力ずくで押さえ込もうとも、肉体の進行は止まらない。対するヴァンサンもまた、衰えていく自身の(男性としての)肉体に鞭を打つ。
「息子」であろうとするアレクシア、「父親」であろうとするヴァンサン。しかし、その虚飾が剥がれてもなお、二人はお互いを受け入れていく。アレクシアの「炎」はヴァンサンによって鎮められたのだろうか。
あらゆる世俗から切り離された二人は、背骨がチタンで出来ている赤ん坊を取り上げる。
このラストシークエンスは宗教的な光と影、そして音楽で演出され、とてつもなく神々しい。
赤子は、劇中でなぞらえられていた通りイエスのような存在……新時代を告げる予言者なのだろうか。
しかし実際のところ、赤子が何者であるかはあまり問題でないように思う。
物語の終わりにスクリーンに映し出されているのはあくまで、この世の何者にも規定されない「愛」の成就への福音なのだから。
前作でシスターフッドを描いていた印象が強かったため、女性のエンパワメントを過激な形で表現しているシーンなのだと解釈した。
「凶器の髪留めは男根の象徴、白く濁りきった唾液は精液の象徴? 考えすぎかな~」などと考えながら観ていた。
しかしアレクシアは、親しくなった女性の同僚ジュスティーヌ(演じるのはまたもギャランス・マリリエ)もまた同じ手口で殺害してしまう!
目撃者を消すため、続けてルームシェアをしていた数人をも手をかけることになるのだが、そもそもアレクシアの殺意の源はどこにあるのか?
どうやらそれは「自身が性的な目線・欲求の対象となった」ときに起こる衝動のようだ。
これだけでもエクストリームな描写の連続であり驚くべき物語展開ではあるが、そもそもオープニングでは交通事故で身体に金属を埋め込まれたことがきっかけで車に身体を擦りつけたり、上記のシェアハウスにおける殺害シークエンスの前には車とセックスをして身ごもっていたりする。
監督ジュリア・デュクルノーの前作『RAW ~少女のめざめ~』は、ベジタリアンの少女が寄宿学校でのいじめや上級生である姉との交流・衝突などによってカニバリズムに目覚めていく……という、こちらもまた非常に過激な作品である。
しかし観ている内、思春期の少女が自身の性と向き合い「愛」とは何かを学んでいく、という、きわめて普遍的なテーマやモチーフが底流としてあることが感じられ、非常に感銘を受けた。
前作の数倍は過激なこの『TITANE』もまた「愛」についての物語である。
アレクシアと他者との関係を見直してみたとき、おそらく一番意味深いのは「父親」の存在だ。
有り体に言ってしまえば、おそらく彼女はファザコンなのだろう。しかし、そのきっかけは判然としないのが興味深い。
なぜ「父親」が彼女に影を落としているのか。それはアレクシアが自身の性(もしくは他者との関係性における性愛)へ抱いている戸惑いのせいかもしれない。
あくまで展開上の成り行きではあるが、アレクシアは自身の肉体に表れる「女性」を押さえ込もうとする。しかし、どんなに力ずくで押さえ込もうとも、肉体の進行は止まらない。対するヴァンサンもまた、衰えていく自身の(男性としての)肉体に鞭を打つ。
「息子」であろうとするアレクシア、「父親」であろうとするヴァンサン。しかし、その虚飾が剥がれてもなお、二人はお互いを受け入れていく。アレクシアの「炎」はヴァンサンによって鎮められたのだろうか。
あらゆる世俗から切り離された二人は、背骨がチタンで出来ている赤ん坊を取り上げる。
このラストシークエンスは宗教的な光と影、そして音楽で演出され、とてつもなく神々しい。
赤子は、劇中でなぞらえられていた通りイエスのような存在……新時代を告げる予言者なのだろうか。
しかし実際のところ、赤子が何者であるかはあまり問題でないように思う。
物語の終わりにスクリーンに映し出されているのはあくまで、この世の何者にも規定されない「愛」の成就への福音なのだから。
Entry ⇒ 2022.04.17 | Category ⇒ 映画 | Comments (0) | Trackbacks (0)
由宇子の天秤と空白
先日『由宇子の天秤』と『空白』という映画を観ました。
公開からわりと時間が経っている作品で、まだ辛うじて上映しているといった具合の渋谷ユーロスペースにて2本続けて観たのですが、これがまた非常に共通項の多い映画で、もしかして意図的なスケジュールだったのか?と邪推するなど、良い二本立て体験でした。
というわけで、二本立て方式で感想を書いていこうと思います。
とはいえ良作とも非常に多面的な作品で、まとまった感想は自分には荷が重いため、レビューというよりは雑記です。
※以下、ネタバレに配慮していません。
●『由宇子の天秤』
映画評論家の町山智浩さんも指摘していた通り、今作は入れ子構造になっている。
ドキュメンタリー監督である主人公の物語をドキュメンタリータッチで描いているという点がそれで、だからファーストショットは主人公である由宇子の顔のクローズアップになっているのだと思う。
ドキュメンタリータッチの劇映画自体は珍しくないが、今作ほど濃密なエモーションを湛えた作品は個人的に記憶にない。
確か黒沢清監督が「カメラというのは目の前の現実をそのまま写し取ってしまう、身も蓋もないメディアである」というようなことを言っていたと思う。
映画というのは、そんなメディアで『物語』を語り、監督をはじめとした作り手のビジョンやイメージを視覚的に表現しなければならない。
だから映画を作るのには手間と金がかかるのだろう。
今作の自然主義的でかつ緊密なシーンの連続を観ていてそんなことを考えていた。
由宇子を追いかけ続ける手持ちカメラは全編にわたってグラグラと揺れている。照明もおそらく自然光や生活照明がほとんど。写される風景は煌びやかな都会でも風光明媚な絶景でもない。劇伴もない。
そんな今作の画面はきわめて「リアル」な、むき出しの映像だ。
しかし、二時間半超えの長丁場のあいだずっと、映画的・物語的なエモーションとスリルに満ち満ちていて、めちゃくちゃ「面白い」。
グラグラとブレ続け揺れ続けるカメラワークは由宇子の葛藤およびタイトルである『天秤』のアレゴリーであろうし、上述した入れ子構造に加え、今作には由宇子に対する萌(めい)という鏡像関係もストーリーに入れ込んでいる。
こういった形式で語られていくストーリーのほうもまた凄まじい。
次から次へと話が転がっていき、画面のルックは地味でも映画・物語としては豊かでかつスピーディー。圧巻のドライブ感覚を味わうことができる。一瞬たりとも目を離せない。
悲惨な事件を題材に152分間ずっと揺さぶられ続け、見終わった後の体力の消費は半端ではないが、これほど豊かな映画的体験はなかなか味わえない。
無比な映画体験を望む方には是非とも観てほしい。
(今作に関してはまだ書きたいことがありますが、それは『空白』の項と併せて記述します)
● 『空白』
大雑把に言うと本作には二種類の人間が描かれている。
はっきりと自己主張ができ、ときには威圧的な人間。
はっきりと物が言えず、他人とのコミュニケーションを上手く取れない人間。
とはいえ、この二種類の性質というのは、割合は違っても誰しも多少は併せ持っているものであり、ときに両者は紙一重でもある。
前者側の人間である充や草加部が表明する他者への強い態度というのは、自身の罪悪感やコンプレックスの裏返しでもあり、現実との"折り合い"をつけるための心理的な葛藤でもある。
そして、物語の終盤には両者とも、そのことを容赦なく突きつけられることになる。
人間描写がとても巧みで、前者と後者どちらにも見事に自分を見出してしまい、鑑賞中は胸が痛かった...
そしてあのラストシーン。
恥ずかしながら自分は、充と花音との「心理的な繋がり」が表れた。2人はやはりかけがえのない絆で結ばれた親子だった。ということしか読み取れていなかったのだが、ライムスター宇多丸さんの指摘が素晴らしく、鑑賞後に改めて感動させられた。
"折り合い"をつけられない人の「あがき」。
あるいは答えの出ない問題への果てしない問答と葛藤。
もしくは、決して完全には理解し合えないのに他者を理解しようとする姿勢や試み。
それらは、現実の事象や問題を前にして「不毛」な行為だと断ぜられることがある。
「行動」することのほうが大事であると。
それは確かに一理ある。空想に耽溺するのは労力の要らない楽な行為だ――翻って、現実の問題を割り切らずに考え続けることは誰にとっても辛い。
これらの行為には見返りの保証がない。
いや、そうではない。
そういった「あがき」は無駄ではないと、この映画はささやかに、しかし優しく肩を叩いてくれる。
青柳は、他者からの思わぬ言葉に涙した。
充はあがき、他者を理解しようとしたからこそ、あの奇蹟を見出すことができた。
それは遅すぎる気づきや行いかも知れない。
けれど、いつか来る最期の日まで否応なく続いていく人生のなかでは、何よりも尊く美しい瞬間(ひかり)であったと思う。
劇場では、終盤はずっと鼻をすする音が聞こえていた。その気持ちはとてもよく分かる。
あらゆる多様化の波に揉まれている今の私たちにとって、今作は必要な映画だ。
※
両作品を改めて比較してみると、やはりよく似ていると思う。
悲惨な、それも若い命の喪失を巡って関係者達の人生が歪み崩壊していく。という筋立ては、同年に公開された映画としては驚くほど両作ともそっくりだ。
作中の事件における重要な部分(事実)が観客にも提示されない。という点も同じである。
(『空白』というタイトルは主にこの部分を指していると思われる)
それゆえアプローチも似ている。
群像劇で各登場人物の多面性を示しつつ、悪辣な報道を糾弾する点も同じだ。
しかし、撮り方は異なっている。
『空白』もまた、基本的には自然主義的な映画と言えようが『由宇子の天秤』ほど「むき出し」の映像にはなっていないし、劇伴もわずかではあるが存在している。
また、時間感覚も違う。
『由宇子の天秤』はドキュメンタリータッチでこれでもかと徹底した長回しで臨場感を演出していたが、『空白』におけるシークエンスの「時間」はキッチリと分かりやすく整理されうえで観客に提示されている。
「時間」の操作は映画芸術の基本的な原理であるが、この違いは改めて興味深い映画体験だった。
また、両作ともリアリズム寄りの映画であるだけに、後半の表現主義的な演出や描写の反復が、とても印象的でもある。
両作品の共通項として「正しさへの問い」も挙げられるだろう。
「正しく」あることが正義なのか?
そもそも「正しさ」とは何なのか?
『由宇子の天秤』では序盤、遺族のコメント(報道への糾弾部分)をカットしろとテレビ局のプロデューサーが指示する。
例え事実であっても内輪・身内批判は流せないというわけだ。
そのことに由宇子が抗議すると、彼はこう言う。
「そんなことして、誰に得があんの?」
『空白』では自殺未遂まで追い詰められた青柳が草加部にこう言う。
「正しさとか善意の押しつけなんて苦痛でしかないんですよ」
この「事実」と「真実」を巡る問題に関しては『由宇子の天秤』がより深く踏み込んで描いていると思う。
「正直」に「誠実」に告白することが、本当に正しく素晴らしいことなのか、結局それは自己満足で、周りを悪戯に傷つけるだけの行為ではないのか?
普遍的、というよりありふれた問いやテーマではあるが、語り口次第でこうも鮮烈に描けるものかと感心する。
しかし、こういった葛藤に一部反する面ではあるのだが、『空白』の劇中にて個人的に感銘を受けた台詞があった。
「大人なんだったら、正しいことをしなさいよ」
という草加部の台詞だ。
もちろん上述したとおり草加部は草加部で問題のある人物であり、むしろ作中のその瞬間は滑稽に聞こえる台詞でもある。
しかし、これはやはり大事なことだとも思うのだ。
他者を意識し尊重する振る舞いができずになにが「大人」か。
また、両作とも「正しさ」もしくは「真実」を貶している作品でもない。ということも念のため指摘しておきたい。
『空白』においては、充が草加部を「偽善者」と罵った次のシーンで、海からゴミが引き上げられ、その破片で充は怪我をする。
『由宇子の天秤』においてはラストシークエンスの由宇子の告白がそれに当たるだろう。
※
両作とも傑作だと思っているが、最後に欠点も書いておきたい。
といってもごく個人的な、それも感覚的な感想なのだが......
両作とも脚本が素晴らしいけれども、時たま「いかにも台詞っぽい台詞だな」と思ってしまう瞬間があった。
これは台詞の置きどころや演者の台詞回しの問題ではなく、むしろ作り手たちの巧みさと上手さに原因があるのだと思う。
深田晃司監督の作品にも感じる問題なのだが、シチュエーション作りが抜群に上手く、且つ、シーンの意図が明快に表現されているために、台詞が計算されたあざとい響きを帯びる瞬間があるのだ。
自然主義的なアプローチや映像だとなおのこと浮き上がって聞こえてしまう。
具体的な例をそれぞれ挙げると、
『由宇子の天秤』の「俺たちの繋いだものが真実なんだよ」
『空白』の「すまなかった。羨ましかったんだよ」および食堂のシークエンス。
これらは作品にとって非常に大事な台詞ではあるのだが、鑑賞中に聴こえた響きには違和感を覚えてしまった。
設計図どおりの流れというか.....
特に『空白』のほうは劇映画的な圧縮した時間感覚で構成されているため尚のこと。
この現象を概念化した名前が付けられないかなあ、と考えていたり。
了。
Entry ⇒ 2021.10.30 | Category ⇒ 未分類 | Comments (0) | Trackbacks (0)
プロミシング・ヤング・ウーマン

※ネタバレしています。
恐れ入りますが、未見の方は絶対に読まずに、まずは劇場へ!
アバンタイトル後『ひと仕事』終えたキャシーは朝の街を歩いて家路を辿る。
その時、車道の向かい側にいる男数人が彼女に声をかけてくる。
「よお姉ちゃん、朝帰りか?」
続けて男達は下品な『ジョーク』を飛ばす。どれも侮辱的な言葉だ。
キャシーは反応せず、ただ黙って『無愛想』に見つめ返す。
すると男達は戸惑い、更なる侮蔑を飛ばしてくる。
「なんだアイツ」
「女なんだから笑えよ」
男達は悪態をついてその場を去っていく。
アバンタイトル後の観客にとって、キャシーは身を呈して男に罰を下した、強(したた)かでかつフィクショナルな女性だ。
では、このあまりにも無礼な男達もまたフィクショナルな存在なのか?
そうではない。この許し難い言動や態度の数々は、ごく普通の女性に降りかかる、ごくごくありふれた出来事だ。
今作の監督・脚本・製作を務めたのはエメラルド・フェネル。女優としても活躍する多才な彼女が手がけた初の長編監督作品である今作は、いきなりアカデミー賞5部門にノミネートされた。
女性を取り巻く暴虐や理不尽にハッキリと怒りを表明しながらも、自らの内心を打ち明けない主人公や二重三重に意味が込められたワードやファッション等、多様な解釈も許す作劇は見事である。
しかし今作の真価は別にある、と思う。
今作は、ポップでスリリングなエンターテインメントでありながら、観客にエクスプロイテーション映画的な消費をさせないよう、非常に細やかに作られている。
女性を主人公にした、セクシャルでバイオレントな文脈に支配されている物語でありながら、男の情欲や観客の暗い欲望がつけ込むような余地はない。暴力描写も性的描写も、扇情的なものは意図的に省かれている。
そしてそれは、物語の終盤の展開についても同様だ。
彼女を仕置人的な『ダークヒーロー』に仕立てて映画を終えれば、観客の溜飲は素直に下がっていただろう。
しかし、どれだけシリアスで現実的な題材を扱っていたとしても、劇中の出来事を『他人事』と観客に感じさせてしまったら、その映画は絵空事として消費されて終わる。
……いや、そうやって『ジャンル映画』の枠に収まったとしても、エンパワーメントの一翼を担う作品として社会的な意義はあったかもしれない。
しかし、エメラルド・フェネルはそうしなかった。
端的に言えば、デートレイプに嫌悪感を覚える私たちも、マディソンだったかもしれないし、ライアンだったかもしれないのだ。
今作はハッキリとした『加害者』だけを糾弾している映画ではない。その射程は広く深い。
「酔ってたほうにも責任がある」
「前途ある青年の夢を奪うのか?」
「お前は俺達を糾弾できるほど過ちのない人生を送ってるのか?」
これら劇中の物言いは、果たして映画の中だけの台詞だろうか?
現実世界の『善良な人々』からも聞いたことはないだろうか?
人は無謬ではない。誰だって自分が可愛いし、赤の他人よりは家族や友達のほうが大切だ。
しかし被害者もまた、それぞれの思いを抱えて日々生きている人間であり『前途ある女性』であったのだ。
傍観者が自己を正当化するための『客観的な意見』が、どれだけ被害者の心を傷つけてきただろう。
キャシーの最期を描いたあまりにも辛いあのシーンは、彼女の精神的な半身であるニーナが受けたレイプの象徴的な再現であり、世の女性たちの『声』がいかに醜い形で押さえつけられてきたかの強烈な戯画化でもある。
例え、過激で直接的な描写が無かったとしても、この映画は十分にショッキングで残酷だ。
しかし今作はキャラクタードラマとして、最後の最後に観客の溜飲を下げてくれる。
それもまた、安心して飲み下せるものでない、後味の残る非常に苦い溜飲ではある。しかし、キャシーの復讐と様々な伏線が一つの『愛』に帰結する様に、自分は深い感動を覚えた。
男も女も、見て見ぬフリはもうやめよう。
“これが僕の愛
これが僕の心臓の音
君には分かっているはず”
――『トーマの心臓』萩尾望都
“たぶん 朝の光は薄暗い
でもそれは大したことじゃない
朝のこだまが罪を犯したと言っても
それは私が望んだことなのだから”
――『夜明けの天使』Chip Taylor
さようなら、朝の天使。
Entry ⇒ 2021.08.01 | Category ⇒ 未分類 | Comments (0) | Trackbacks (0)
愚行録

※エンディングに触れています。
曇天下のバスの中、乗り合わせただけの何の縁のない者たちそれぞれの顔を、カメラは車両先頭から順に映していく。
窓に滴り落ちていく雨のしずくを気だるげに見つめる青年・主人公の田中武志は初老の男性から突然叱責される。近くに立っている老いた女性に席を譲れというのだ。
「ボサッと座ってんじゃないよ」田中は席を譲るが、足を引きずり車内に転ぶ。空気が変わる車内。足が不自由だったのか.......足を引きずりながら降りていく田中を気まずく見送る車内の人々、そして叱責した男性の恥じ入るような顔。しかし、バスが行ってしまうと田中はスタスタと歩き去って行く。
人間同士の不信を意地悪く描写したこの冒頭で語られるのは、畢竟、人はいかに孤独であるか。ということではないだろうか。
この鮮烈なオープニング、続く妹・光子との留置場の面会室でのやり取り、この10分間を観ただけで傑作の予感を漂わせるこの作品。その期待は最後まで裏切られることはなかった。
俳優陣のそれぞれベストな演技を引き出す手腕も素晴らしいが、他の日本映画と一線を画すのは撮影だ。監督の石川慶はポーランドの名門校で映画を学んだそうで、撮影監督とカラリストにもポーランドのスタッフを起用している。冷たい質感の映像は美しく、音響はときにデイヴィッド・リンチ作品のように不穏。
そんな映像のなか、タイトルが示すとおり人間達のウンザリするような愚行が語られていくわけだが、本作は実際のところ「記録」ではなく「記憶」のドラマだ。やや舞台調の演技も相まって、ドロドロしていながらもどこか浮世離れした雰囲気がある。
「あそこにいた人でないとわからないか」
田中が取材をしたとある女性が発する台詞。
卑近であると同時に身勝手なキャラクター達が語り織り成すドラマは、観客の共感を拒む。しかし、そもそも人間同士が完全にわかり合えることなどない。
物語が展開するにつれ武志と光子の逼迫した環境が明らかになっていくが、あの真っ白なカウンセリングルームと暗い独房、そして共依存の面会室に、我々も皆、閉じ込められ・閉じこもっているのではないか。
「ありがとう」「ごめんね」
自身を壊した禍々しい「過去」の掌で、武志をガラス越しに撫でる光子。
続くエンディング。オープニングと対になるバスの車内で、武志はとある女性に善行を施す。カメラは回転し、再び人々の顔を映していく。そして一周したとき、当然それは武志に辿り着く。人は、自分からは決して逃がれられない。
Entry ⇒ 2021.03.10 | Category ⇒ 未分類 | Comments (0) | Trackbacks (0)
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